緊急事態宣言下、飲食店の店内利用の時短営業によって、テイクアウトを利用する機会がかなり増えた。
そこで今回はファーストフードの代表格「牛丼」のテイクアウトを、激ウマに食べる方法を紹介したい。
玉袋筋太郎氏・著『新宿スペースインベーダー』の牛丼が食べたい
参考にするテキストは、『町中華で飲ろうぜ』(BS-TBS)やスナック探訪などの活動でも知られている玉袋筋太郎氏の著書『新宿スペースインベーダー』だ。
この小説の舞台は、玉袋氏が少年時代を過ごした1970年代後半の西新宿。玉袋少年と悪ガキ仲間が遊び場にしていた“あの頃”の新宿での思い出を綴ったもので、その牛丼は第6章の『若松2世とカベさん』に登場する。
少年たちの夏の定番は、ヤクルトスワローズのナイター観戦。地元・西新宿8丁目から神宮球場まで自転車を漕いで向かう途中、必ず立ち寄るのが新宿大ガード向かいにあるションベン横丁(現・思い出横丁)の吉野家だ。
オレ達は黄色いシャツを着た店員さんが弁当の容器に蓋をするまえに「ちょっと待って!」と声をかけ、蓋を閉めるまえの盛られた茶色の容器を受けとり、テーブルに置いてある紅ショウガをトングでゴッソリ弁当に摘んで盛って、その上から七味唐辛子を思いっきり振りかけるのだ。
特製の牛丼弁当を仕入れたら、次のようなルートを辿って西新宿から神宮球場まで自転車で駆け抜ける。
大ガードを越え、新宿駅まで続く映画看板群を横目に見ながら駅ビル・マイシティ(現・ルミネエスト)の脇道に入り、腸詰がぶら下がっている台湾料理屋や連れ込み宿、個室ヌードが軒を連ねるエリア“三角コーナー”の雰囲気にビビりながら、現在のタカシマヤタイムズスクエアがある路地から明治通りに出る。
明治通りから細道に入って、新宿御苑の千駄ヶ谷門入口に続く“緑の道”をまっつぐに、千駄ヶ谷駅、東京体育館、神宮プールを越えて国立競技場の前を抜けたら神宮球場だ。
ヤクルトの選手たちが練習している軟式野球場で試合前の練習風景を眺めてから、ファンクラブ会員用の特別内野席から外野席に潜り込む。
そうして開場してすぐのガラ〜ンとしただーれもいない外野席でみんなで買ってきた牛丼弁当を広げて食うのだ。容器の中は汗をかいてしまって牛丼は冷めているんだが、このぬるさがなんとも言えない味で、その冷めた牛丼と一緒に、道中、自転車のカゴの中で揺られたコーラの1リットル瓶をブュシュ〜ッと吹かせてみんなで大笑いしながら、ゴクゴクと流しこむ……
何度読んでもページにヨダレが落ちそうになる描写だ。
新緑の季節、神宮球場の外野席で食べる紅ショウガと七味唐辛子がたっぷり入った、ほどよく蒸れた牛丼弁当。マズいはずがない。
高層ビルが建ち始めた西新宿から、今よりずっといかがわしくも雑多な魅力に溢れていた新宿の裏町を抜けて憧れのプロ野球選手に会いに自転車を疾走する姿は、まるで『グーニーズ』の少年たちのような冒険心に満ちている。牛丼弁当を食べる描写もさることながら、この道中づけが食欲を増幅させるのではないだろうか。
というわけで、神宮球場でヤクルト-阪神戦のあったゴールデンウィークに、玉袋氏が少年時代に食した牛丼弁当の味を求めて、先ほどのルートどおりに西新宿〜神宮球場を辿ってみた。
玉袋筋太郎氏の思い出の味を旅する
西新宿の高層ビル群〜新宿大ガードを抜ける
まずは、小説で玉袋少年たちが学校帰りに溜まり場にしていた駄菓子屋や銭湯のあった新宿8丁目の路地を抜け、青梅街道に出る。街道向かいには玉袋氏の産まれた東京医科大病院がある。
1971年開業の京王プラザホテルを皮切りに、淀橋浄水場跡地にニョキニョキと建ち始めた野村ビル(78年開業)や安田火災ビル(現・損保ジャパンビル、76年開業)などの高層ビル群を右手に新宿駅へと向かう。
「野球行かないでOSでストリップ見てこうぜ!」とバカ話をしながら通り過ぎた、ストリップ劇場「OS劇場」があった新都心歩道橋下交差点を抜けると、新宿大ガードが見えてくる。
大ガード手前の思い出横丁(かつてのションベン横丁)に立ち寄り、吉野家ではなく、入口横の松屋で「プレミアム牛めし」と「豚汁」を購入。
新宿駅東口〜東南口の“三角コーナー”へ
大ガードを右折し、ルミネエストへ向かう。
ルミネエストとあおぞら銀行の間にある路地を通り、湘南新宿ラインが真横に走っているかつてのマイシティ裏へ入る。
この辺りから、かつて玉袋氏が三角コーナーと呼んでいた猥雑でいかがわしいエリアに入る。敗戦直後から約5年間、新宿武蔵野館から南口までの一帯はテキヤ和田組が仕切る闇市マーケットだった。その雰囲気は渡哲也主演の映画『仁義の墓場』で知ることができる。
また、新宿ランブリングロードと武蔵野通りが交わる東南口広場がある甲州街道下は、かつては昭和天皇即位記念碑の建つ御大典広場跡地。1990年中頃までは戦後のドサクサのノリで不法占拠を続けていた飲み屋やコピー屋、占い、預かり所、チケットショップ、個室ヌードスタジオなどが軒を連ねる桜新道と呼ばれる飲み屋街だった。
甲州街道の高架をくぐると新宿4丁目。
新宿4丁目は新宿南町と呼ばれていた明治・大正時代。その後は旭町と呼ばれ、戦後しばらくまで木賃宿が並ぶいわゆるドヤ街だった。戦後、甲州街道の高架下にはパンパン(街娼)が立っていたようで、交渉成立後はこの一帯にあった木賃宿にしけこんだのだろう。
たしかに歴史を知ると、玉袋少年が自転車のギアをトップにして走り抜けたくなる気持ちも分かるエリアだ。
御大典広場については、カメラマンの滝本淳助さんが当時撮影した写真を時折Twitterにアップしているので、興味をもった方は覗いてみるといい。
“緑の道”を抜け、神宮球場に到着!
かつての貨物線ホーム跡地にできたタカシマヤタイムズスクエアのある路地から明治通りを横切り、新宿4丁目南交差点脇の細道を入ると、玉袋少年が緑の道と呼んでいた千駄ヶ谷門入口まで続く新宿御苑脇の緑道に至る。
千駄ヶ谷駅から明治神宮外苑に入り、東京体育館、神宮プール(明治神宮水泳場、2002年閉鎖)跡地を通る。
国立競技場を右手に進むと、ゴール地点の神宮球場の壁が見えてきた。
球場正面からライト側外野席の方へ引き返し、場内アナウンスがうっすらと聞こえてくる軟式球場隣の噴水広場に腰を落ち着けることに。1時間半も歩き続けたので腹の空き具合も最高潮だ。
真っ赤な革命弁当、その味は……
いよいよ、思い出横丁の松屋で買ってきた牛めし弁当を広げる。豚汁も購入してから1時間ほどが経過していたが、それでもまだ容器の底はほんのり温かい。
しっとりと汗をかいた容器の蓋を外すと、......赤い。日の丸ならぬ、中国国旗のような革命弁当だ。これでもかと盛った紅ショウガと七味唐辛子の赤が、牛肉に色移りしているではないか。
果たしてその味は......、ウマい。
肉汁と大量の紅ショウガと七味唐辛子が、時間が経ったことでなじんでまろやかになっている。疲れた体にはちょうどいい酸味と刺激だ。
初夏の空の下、場内アナウンスと球音を聞きながら肉汁と紅ショウガの汁が染み込んだ白飯をかっ込むのは、店内でできたて熱々の牛丼をはふはふ言いながら頬張るのとはまた違った味わいがある。5分とかからず完食してしまった。
◇
コロナ禍で外食もままならない状況が続いているが、そんな今だからこそ通い慣れた街並のかつての姿に思いを馳せながら、テイクアウトを楽しんでみてはどうだろう。
ちなみに今回の大量の紅ショウガと七味唐辛子は、以前牛丼店の店員さんから弁当にテーブル席の紅ショウガと七味唐辛子を盛るのは衛生上の理由から断られたことがあったので、自宅から持参し、途中で盛りつけたものである。
それにしても、前回の山手線駅そば巡りもそうだが、いつもオレ、料理に七味唐辛子をぶっかけてるな。
(執筆:ボニー・アイドル)
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