いきなり女が、背景から切りとられた、輪郭だけの存在になっている。
二十歳の男は、観念で発情する。四十歳の男は皮膚の表面で発情する。
しかし三十男には輪郭だけになった女が、一番危険なのだ......まるで自分自身を抱くように、気安く抱くこともできるだろう
これは、小説家・安部公房の代表作『砂の女』の一節。砂丘のなかにある村の一軒家に閉じこめられた男が、そこに住む女に発情をもよおした時の胸中描写だ。
『砂の女』を初めて読んだのは中学生の頃だったろうか。その時は特に深く考えずに読み飛ばしていたが、再読するたびに気になってきた箇所だ。
引用箇所は、どうやら20代、30代、40代と、年を重ねると惹かれる異性のポイントも変わっていきまっせ、といっているらしい。
「最近、ケツ派になってきた」
「一周回っておっぱいに還ってきた」
「いや、やっぱ脚でしょ」
「私は肩幅が...」
男同士で飲むと明け方近くになってしがちな会話だが、まさか世界的文豪・安部公房が我々のようなレベルの低いフェチについて説いているとは思えない。
なんせ「30代男には輪郭だけになった女性が一番危険なのだ」と断言しているなのだ。
今年は安部公房生誕からちょうど100年にあたるらしい。
これを機に、長年の謎だった「20代=観念」「30代=輪郭だけの存在」「40代=皮膚の表面」という男にとっての発情ポイントについて考察してみたい。
20代の男は「観念」で発情する
まず、20代男は「観念で発情する」。1問目なだけに他の解釈の余地がないほど簡単だ。
性体験がなく、実態がつかめない状況でセックス、エロのイメージだけが頭の中で膨大し、針で突けば爆発するぱんぱんの状態。それが10代、20代だ。
今はとんと見なくなったが、昭和~平成初期に生まれた方だと一度は学校のトイレや高速のガード下の壁に大書きされた「SEX」という落書きを見たことがあると思う。あれこそが観念で発情、というより観念が爆発している状態だ。
「セックス」や「おま〇こ」ではなく、「SEX」と書くあたりが、本来の意味での「中二病」的でイイ。
また、実態がつかめていないからこそ周辺のあらゆる方向にエロプラグが伸びている状態ともいえる。
「マイブーム」「ゆるキャラ」などの生みの親・みうらじゅんさんは小学生の頃、母親が自宅で開いていた洋裁教室の黒板に「キャバレー」と書き、それを見ながら自慰行為をしていたという。
「観念で発情する」の模範解答で、これ以上のものはないだろう。
30代の男は「輪郭だけの存在」に発情する
次は、30代男にとっていちばん危険だという「輪郭だけになった女」。これだけ危機感を抱いているということは、とりあえずこの主人公は30代なのだろう。
考察の前に、当該箇所の数ページ前の描写を引用する。主人公が砂の女の家で、一夜を過ごし目覚める場面だ。
女は、素裸だったのだ。(中略)
しかも、その表面が、きめの細かい砂の被膜で、一面におおわれているのだ。砂は細部をかくし、女らしい曲線を誇張して、まるで砂で鍍金された、彫像のように見えた。
砂プレイである。
つまり、輪郭だけになった姿とは「女性的なフォルム」が強調されている状態、ということなのだろうか。
なるほど、ぼくも黒ニット姿の女性の胸部分にそういう目を走らせがちなのは否定できない。いわんや素っ裸に砂まみれの女体をや(言うまでもない)。
たしかに危険かもしれない。
しかし、「一番」と断言するほどではないような。そもそも黒ニット姿の女性が好きなのは、30代男に限ったことではないだろうし。
どうやら素っ裸に砂まみれの裸体の女性というのは、隠喩(メタファー)のようだ。
では模範解答はどのように導き出せばいいのだろう。
注目したのは、「いきなり女が、背景から切りとられた、輪郭だけの存在になっている」という文章の「背景」という部分。
「背景」を生い立ちや、家庭環境、職業、収入、社会的地位、○○推し、○○担当、といった個人が背負っているあらゆる社会的要素と置き換えると、「輪郭だけになった存在」とはそれらすべてから切り離された存在、と解釈することができる。
たとえるなら、清涼飲料水のペットボトルから商品ロゴや企業名、原材料が記されているラベルが剝がされた状態だろうか。
思えば、安部公房には名前の喪失をモチーフにした『夢の逃亡』、他人の皮膚でつくった顔で妻を誘惑する『他人の顔』、ダンボール箱ですっぽりと体をおおい、街と人々を見つめる『箱男』など、匿名性ともいうべきテーマの作品が少なくない。
安部公房は背景を切りとられた人物を描くことによって、根源的、普遍的な関係を追求した作家、といえるだろう。
気楽な20代を過ぎ、社会的にも生活面でも人生の足場を固める時期に入る30代だからこそ求めてしまうのが、輪郭だけになった存在なのかもしれない。
そうそう、コロナ禍の東京の夜の街には、輪郭だけになった男女が多かったような気がする。
コロナという人類共通の災禍によって個人の背景が少しだけ薄くなり、30代のような気分の人がけっこういたのかもしれない。
40代の男は「皮膚の表面」に発情する
最後は、40代男が発情するという「皮膚の表面」。
いちばん難しそうなので残しておいた。
平たく「皮膚の表面に超興奮する!」と言い換えてみる。
パンティライン、パイスラ、肩出しニット、胸元に浮き出た血管、湯上りたまご肌(桃井かおり)......、などが頭をよぎるが、すべての40代男にとってフェイバリットというわけではないだろう。
えくぼや目尻にできる笑いじわも違う気がする。
ヒントを求め、安部公房の作品群から皮膚に言及した箇所をさらってみる。
「私は、人間の魂は、皮膚に宿っているのだとかたく信じていますよ」
(『他人の顔』より引用)「たとえば、孤独感というのは、一種の帰巣本能らしい。そして結局は皮膚感覚が、すべての感情や情緒の巣らしいよ」
(『密会』より引用)「人間の情緒が、多分に皮膚や粘膜の感覚に依存していることは了解していただけるでしょうな」
(『第四間氷期』より引用)
ざっと上げただけでも、皮膚への強いこだわりがうかがえる。
安部公房は、脛(すね)の皮膚からかいわれ大根が生えてくる男が主人公の小説『カンガルー・ノート』執筆後、心理学者の河合隼雄氏との対談のなかで皮膚について次のように語っている。
「自己と他者の国境ですからね。皮ってけっこう奥が深い」
(『【河合隼雄対話集】こころの声を聴く』より引用)
そう、「皮膚=他者との境界」とずばり言っているのだ。
日本語表現には「肌感覚」「面(つら)の皮が厚い」「肌が合う」など、他者との相性や場の状況を、皮膚や肌の感覚で表すものが少なくない。
つまり皮膚の表面に発情するとは、相手の言葉遣いや立ち振る舞いを含めた社交性、世間とのしのぎ方(=向き合いかた)、それらを通して情緒や心の機微に触れた瞬間といえるかもしれない。
「マルハラ」は皮膚感覚か?
「皮膚の表面で発情する」の具体例として、たとえば最近ネットニュースになった「マルハラ」という話題を考えてみる。
LINEのやりとりで文章の締めに「。(句点)」を付けると、若い世代は威圧的に感じてしまうという。
ハラスメントは大げさすぎるにしても、たしかに相手次第、会話の内容次第で「。」で締める文章は事務的、他人行儀に感じさせてしまうだろう。
40代男のぼくも、肉親や親しい友人とのLINEに「。」を付けることはめったにない。
ただし、これは体裁を整えなくても安心している間柄だからこそ成り立つコミュニケーションであって、「。」をつけることによって一線を引いたほうが良い関係が存在するのもたしかだ。
最適解とは言えないだろう。
では、ぼくが思う皮膚で発情した具体例を挙げたい。
*
少し前、知り合ったばかりの女性と初めて二人で飲みに行くことがあった。
お互いを「さん付け」で呼び、日時や店を決めるLINEのやりとりはしっかり「。」で締める、そんな関係だ。
全国各地の日本酒が取り揃えているお店だったので、つまみのひとつは「刺身3品盛り」にしましょうとなった。
で、出てきたのは、3種類の刺身×3切れが乗った一皿。
皿を見た瞬間、緊張が走った。
そう、半分こができない。
刺身3種類×2切れ、もしくは2種類×3種類ならまだしも、全9切れでは最後は譲り合いになる。
結果、食事後にはよそよそしさだけが残り、関係は「さん付け」「。付き」から一歩も進展しないまま。
ぼくが死んだ魚を見るような目で刺し盛りを見つめていると、頭の上からあっけらかんとした声がかかってきた。
「これはジャンケンだね!」
ざざざざざざざざざざざざざざざざざざざ
体中を数万匹の王蟲が走り去ったような感覚が走った。
なんてフェアで、ゲーム性にあふれ、かわいらしい、機微に富んだ提案なのだろう。
40代男が皮膚の表面で発情した瞬間である。
冒頭述べたように、今年は安部公房生誕100周年。
文豪の作品を通して、自身の発火点を見つめなおしてみてはいかがだろうか。
(執筆:ボニー・アイドル)
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